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2017-08

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あらためなくても、私が佐藤高央です。 - 2013.01.06 Sun

さてさて、後半戦はなぜ私が福井にいるのかという所に結びけられるように書きたいと思います。

大学2年生
私は、真剣に将来の事を考え始めます。
まず、初めに行ったのが、協力隊の説明会です。
ここで、思ったのが、何か技術を持たなくては、思いがあっても、役に立てないという事でした。

そして、外国に飛び立ちます、大学2年の時だけで、パキスタン、インド、フィリピン、インドネシアへといきました。そして、外国に行くたびに思うんですね、今のままでは、何も役にたたないと。

それでは、一体何をしたらいいんだと人生の模索に入ります。

そこで、出会ったのが二人の教授でした。
一人は、協力隊OBで、農業経済でバングラディシュに行っていた方です。
その先生の食糧危機の授業を受けたのをきっかけに農業というものに興味を持ちます。
もう一人は、ゼミの先生です。
「うちのゼミでは、一つの事について調べなさい、そうしたら見えてくるものがあるから」という事を言われ、私は大豆について調べはじめたのです。

そしたら、大豆の凄さに触れ、大豆に魅了されていき、「大豆は世界を救う」という卒業論文を書くことになったのでした。

大学当時、大豆に魅了され、大豆作りにも挑戦しました、そのせいか、僕は周りから、あの大豆の人と言われるようになりました。そんなに、大豆、大豆って言ってたかな。
いってましたね、市販の豆腐の食べ比べしてたぐらいですからね、、、


だいぶ端折りますが、その後、何人もの人を通して、農業への道に進みます。

その時の思い出話しその一
農家への就職先を探して、全国を飛び回るんですが、そのたびに傷を負って帰ってきます。
農業と国際協力というものをやって行きたいと、自分の思いを語るのですが、会う人会う人にそれは無理だと言われ続けます。時には罵声を浴びせられる事や、人間否定される事もありました。

今思うと、あの時の自分は苦しかったなと思います。
自分を責めた事もありました、諦めかけた事もありました。

そんな自分を助けてくれたのは、自分の夢を一番理解してくれていた先輩です。
私がもう、諦めようかと愚痴をもらしたとき、君の思いはそんなものだったのと、本当にやりたいと思うなら、絶対あきらめてはいけないと、普段、温厚な人が感情を込めて言ってくれたのです。
その言葉があったから、今まで頑張ってこれたのだと思います。

その時の思い出話その二
とうとう、ここで、農業を勉強したいと思う所を見つけます。
それは佐賀県です。
わざわざ、佐賀県の県庁までおもむき、県の職員から情報を得、手紙のやり取りから、会うことができたのです。
それは、卒業まじかの2月の話です。

しかし、その時、君の熱意は歓迎するが、今は君を受け入れることはできなんだとやんわり断られたのです。
期待を込めて、佐賀まで行ったのに、だいぶ落胆しました。
ですが、私の考えを否定せず、すべて受け入れてくれた唯一の農家さんでした。
それだけでも、あの時の私には嬉しかったのです。
そして、その時私に教えてくれた言葉があります。
「その道に入らんと思う心こそ、わが身ながらの師匠なりけり」

今でも、この言葉を忘れません。

農家への就職活動を失敗に終わりました。
しかし、次への道を示してくれる人に出会い。
私は農業の学校へと向かいます。

茨城県水戸市の日本実践学園です。
23歳~24歳


この時、私は、最大の壁にぶち当たります。それは家族の応援です。
そりゃそうでしょう、大学までだしてやった息子が農業をやるっていうんですもん。
反対するのは当たり前、なんど言い争いになった事か、、、

しかし、それは一つのプレゼントで変わります。私が初めて作った野菜を両親に送った事がきっかけです。
その中に、「ありがとう」という大橋卓也さんのCDも入れて送ったのです。
ほんとの気持ちを言えば、心配ばかりかけてごめんと言いたいのですが、面と向かうとなかなか言葉に出すことができません。それを、野菜とCDの曲に込めて送ったのです。
それから、反対から応援へと両親の姿勢が変わり、協力隊へ行くことになるのです。



そして沖縄県宮古島と長野県駒ケ根市に行きます
23歳~24歳

宮古島では、JICAの補完研修を半年
駒ケ根では、派遣前訓練を2か月間行いました。

海に囲まれ、山に囲まれ、自然豊かなところで、色んな人と出会い、貴重な体験をさせてもらえたのがここでの経験です。

そして合格してから、訓練をへて一年越しに派遣されたのです。


派遣されたのはボリビア、オルロ県、クラワラデカランガス市です
標高3900mという富士山よりも高い場所へ派遣されます。
24歳~26歳と、2年間ここで暮らしました。

クラワラでは、1ドル以下で暮らす人達が90%近くおり、JICAの支援が入っていました。
その支援の一環として、私自身、農業隊員として派遣されたのですが、、、

実情は違いました。
仕事はない。
何をしに君は来たのと言われるありさま。

まぁ、ここまでは、事前に協力隊の実情を調べていたので、想像の範疇でした。
なので、めげる事なく、カウンターパートと呼ばれる人を通して一から活動のプランを立てていきます。

しかし、3ヶ月後にはカンターパートナーが選挙の関係でいなくなり、そして、ボリビア人でこいつ凄いなと思える市長もいなくなってしまったのです。

まぁここも想像の範疇、協力隊では派遣されたのに、要請を上げた人がいないなんてざらにあるそうなので。

それでも、やっとの事で、自分の活動できるハウスを手に入れたので、堆肥作りの研究とモデル農園作りに力を入れていきます。その他にも、農民、小学校、高校、大学、軍隊への農業指導にも携わっていきます。


そんなこんなで、やっと順調に進んできた、活動でしたが、大打撃を受ける出来事がありました。
作物にとって大事な水がないという現状です。これは色々な事情があって水が出なくなったのですが、4ヶ月間も水がなかったのは、今でも口惜しい出来事です。2年間という期限付きの協力隊員にとって貴重な4ヶ月間なのに。これで、大学生に農業を教える件案が一旦流れます。

そして、忘れもしない、ラクダ科のグワナコとの大戦争。
市から借りたハウスには、先住者、ワラ(グワナコの名前)がいたのでした。
どちらかというと、私が後からきたから、ワラにとっては私は侵略者という位置づけだったのでしょう。

彼女との縄張り争いは激戦を極めたすえ、こちら側の防御柵を破壊し、私の畑や堆肥場は蹂躙されたのでした。みるも無残な姿に、、、

食べ散らかされた、野菜の姿に呆然としました。
ちなみに、この時野菜の残渣で天竺ネズミを育てていたのですが、その野菜残渣すらでない状況になり、3匹の天竺ネズミが息絶えたのでした。

まぁこれも想像の範疇、、、、という訳にいかず、私は任地から1週間、無断逃亡をします。
任地を離れて向かった場所は、首都ラパス、ここには普段食べられない、日本食、中華料理、韓国料理、ピザ、フライドポテト、パスタ、ハンバーガー、ホットドック、ヨーグルトといった、日本にいたときに食べていたものと同じ食べ物が食べらるし、そしてインターネットもあるし、暖かいシャワーも浴びれる、酸素もちょっと濃いし、そしてなにより日本語をしゃべれるし。

なんとも天国のような場所です。
しかし、どんなに、美味しい食べ物を食べても、インターネットが快適でも、日本人と話しをしても埋められない心の隙間があるのに気づいたのです。

私のいる場はラパスではない、クラワラだと。そして、絶対諦めないという言葉を胸に、再び任地に戻るのでした。


ボリビアでの活動に自己採点すると0点でしょう。
しかし、その間もがき苦しんだ事は、今の私の糧になっている事は確かです。

そんな私は、ある思いを秘めて日本にかえります。
それは、ボリビアで得た事以外に、それまでに思ってきたこと、考えてきたことを全てふまえての思いです。

まず、私の好きな言葉です。
世界を救うには、ある人は愛だと言う、ある人は宗教だと言う、ある人は政治だという、また、ある人は音楽、スポーツ、笑い、教育、科学、お金、医療だと言う。だけど、世界は何か一つで救えるものだろうか、救えるのかもしれない、何故なら、そう信じる人達がいるから、だから、そんな人達に伝えたい、皆で協力しようよって。  

世の中をよくしたいって思う人はたくさんいるかと思います、しかし、現実は難しいです。
それはなぜだろうか、そんなのがこの言葉には含まれていると思います。
色んな人達が協力し合えた時、それは叶うのかもしれませんね。

わたしは、この言葉を精神的な柱にして、色んな意見の人と協力しあっていくこと
それは、自分から色んな場所に出向き、または、尋ねられてきた縁を大切にして、仲間の輪を大きくしていくことでもあります。やっぱ、一人じゃ何にもできないですから。


次に、世界平和とは何か、、、
それは、永遠のテーマかもしれませんね。
しかし、私が思うにはみんなが、幸せを感じることではないのかと。
そこで、私は聞きました、日本にいるときは日本人に、ボリビアにいるときは、ボリビア人に、、

その答えは人それぞれです。
しかし、みんなの意見を聞いてみると、それぞれの感じる幸せとは、絶対無理という実現不可能なことではないんじゃないかなと思ったのです。
なので、その幸せを一つでも多く叶える事ができたら、世界平和は近づくのではないのでしょうか。

そして、私はみんなの幸せを叶えるために、まずは自分の思う幸せを叶えること、
それは、自分の作った野菜を、友人や家族と一緒に他愛もない会話をしながら食べることです。
私はボリビアにいて感じてたんですね。美味しいものを大好きな人達と一緒に食べる事が、どんなに幸せかを。
だから、今はその思いを叶えたいと


そして、国際協力。
学生時代に色んな、NGOの講演会やセミナーに参加してみて思った事があります。
それは、どのNGOもお金がない事です。現地にとって必要な支援がお金がない事によってできない、職員の給料すらろくに払えない。また、寄付金をもらって、お金を得たとしても、その資金提供者の意向によって、ほんとに必要な活動ができない。そんな現実がNGOの中にはあるのではないかと。

逆に、資金が豊富にある、国際機関や各国の出先機関はというと、ひも付きの支援があれば、住民の意向を無視した開発やプロジェクトもある。このことは、以前から話には聞いていたのですが、いざ自分がボリビアに派遣された事によってしみじみと実感したのでした。

お金があっても、お金がなくても、思うようにできなのが現実、必要なのは思うように使えるお金なのではないのかと今は思います。

なので、自分の自由になるお金、誰にも何も言われないお金を生み出しつつ国際協力に貢献していくこと。
そのためには、私は農業という職種を選んだのだから、この分野で独立採算で国際協力をしていく道を作っていこうと思ったのです。


そして、この大きな三つの思いを胸に2012年1月、日本へと帰ってきたのでした。




それから、はや1年
私は今、福井県にいるのです。
たぶん人生で、、、、うーん、、、、何個目の場所だ!?

そのくだりは、のちのち書いていこうと思います。
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あらためまして、私が佐藤高央です。 - 2013.01.05 Sat

新しい年を迎えたことですし、新しい第一歩を踏むためにも、今までの自分を振りかえって、自分のプロフィールを書きたいと思います。

ちょっと長くなりますが、よければ見てやって下さい。


生まれは東京、出身も東京なのですが、自分の自己紹介をすると、いつも面倒くさい事になるんですよね。
なぜなら、今まで住んできた所がいっぱいありすぎるからです。

その説明が初対面の人と話す時いつも長くなるのがネックです。

さて、そんな私の初めて過ごした場所は奈良県です。

0歳~2歳と半年過ごした場所
しかし、記憶がないので、何一つ思い出がないのですが。
親から聞く話が思いで話のようなものです。
おもちゃのミニクーパーが遊び相手。


次が2歳から6歳まで過ごした場所岐阜県多治見市です。
ここから記憶があります。
粗大ゴミに捨ててあった自転車を拾い、四歳時にして補助輪なしで自転車をこげるようになりました。
その時の練習してる自分が記憶に強く残ってます。
なぜなら、危うく道を外れて、崖っぽいところから落ちそうになって、初めての恐怖を感じたからです。
生きてて良かった。

6歳から10歳までいたのが、山梨県甲府市です。
ここでは、とにか、サッカーとガンダムにはまっていましたね。
とにかく遊んだ記憶しかないです。しかし、山梨との友達とは今は連絡を取れない状態、あのころのみんなは今何をしてるんだろう。
ちなみに、山梨県にいた頃は、ぶどうと桃はタダで貰えるものだと思ってました。

次は青春期を過ごした新潟です。
10歳から15歳を過ごした場所です。

この頃から、環境問題に興味を持ち、ダイオキシンの有害性を作文にして、市で発表した記憶があります。
この時が初めて人前でしゃべるという経験をしたのですが、極度の緊張のあまり、発表直前まで、先生の横で寝てしまいお叱りを受けた事を覚えてます。未だに極度の緊張に襲われると眠くなるのはこの時から始まったのです。この時出会った先生は今でも最高の先生です。

中学に上がると、陸上部に入り、110mハードルの選手となります。特に何かに打ち込んだという事はなかったのですが、なぜか生徒会長になりたいと思い(理由が思い出せない)、沢山の友人の助けを借りて、生徒会長になることができました。その時に生徒会のメンバーと一緒にやったクリスマス週間のために流した、クリスマスソングが今でも忘れられません。ミーシャ evertingを聞くと今でもあの頃を思い出します。

さて、この頃、自分の進路について、真剣に向き合います。座禅なんかしてしまうぐらい当時の自分にとっては重大なことでした。そこで、たまたま見た一休和尚の番組を見てある言葉に感化されます。

一休さんは、天皇の落し子ということで、大変な青年期を過ごします。
私には計り知れない、苦悩があっあことでしょう、そんな一休さんは琵琶湖のほとりで、悟りを開くんですね。
「自分の苦しみなんか、この琵琶湖の広さに比べたらちっぽけなものだ」と、それから一休さんは、自分よりも苦しんでいる人はたくさんいる、その人たちのために生きようと。

それに感化された私は、世界の人のために生きようと思うのです。


そんな、思いを持って次に行ったのが、神奈川県の南足柄市です。
たぶんここが、僕が住んだ一番田舎だったんではないでしょうか。
山とみかん畑に囲まれた、静かなところです。

15歳から18歳とちょうど高校三年間いました。
ここでの大きな出来事は3つあります。

一つは思春期独特の人間関係
二つ目は部活を通して、ものを作る事の楽しさ、充実感
三つ目は初めての海外、フィリピン

一つ一つ細かく話すと長くなるので簡単にいうと、人間の心の冷たい部分と暖かい部分を知ったことです。
大嫌いな奴に出逢えば、尊敬できるひとにも出会えた。多感な時期の自分には大きく影響を及ばした濃い3年間だった思います。

さて、初めての海外ですが、この時のファーストインプレッションは今でも忘れていません。
空港を降りて、見た風景は、発展の度合いや社会の成熟度といったものは、日本とは全然違いました。
しかし、ああ、同じだなと感じたのです。理由はよくわかりません、フィーリングといったものです。
この時、自分は世界ばかりに目が行っていましたが、日本を見直すきっかけになりました。
将来は日本で働きたい、日本をもっと知りたいと。

そして、とうとう生まれた土地、東京に帰っえてきます。ここからが長いです。
18歳~22歳です。

大東文化大学の国際文化学科に行くことになります。
実は、この大学は滑り止めで行く気は全くなかったのですが、ここ以外は受験に失敗して浪人を許されなかった私は、埼玉の田舎へ、毎日往復3時間半をかけて行くことになったのです。

ですがここで学べた事は大きかったです。
世界中の人のために生きようと、中学の時からの思いは失せず、国際協力という分野で自分は生きていこうと思っていた私は、国際機関やNGO、世界経済といった分野に興味を持っていたのですが、私の学部は違った部分から、私に新し視点をもたらしてくれたのです。

それは文化です。そして、その文化を作りあげているのは、宗教、言語、経済、歴史、衣食住、などさまざなものが絡み合ってできているのだと。特に未だに思うのが、言語です。私が学んだ言語は、ウルドゥー語というパキスタンの言語なのですが、その言葉の中には、日本語にない言葉がいくつかあるんですね。それはその国の人の価値観を表しているものだと。日本語にも海外にない言葉はいくつもありますよね。有名なのが「もったいない」です。言葉にはその国の人たちの精神が込められ、異国間文化を学ぶためには、言語から、その言葉をしゃべる人たちの価値観を知ることができるんですね。

大学時代、大東文化でイベントを企画運営したりして、たくさんな友人を得る事ができました。
それと共に、私は、東京の杉並区で寮生活をしていたのですが、ここで出会った友人たちは、私の宝物です。とにかく凄い奴らが多かった。

それは、頭がいいとか、将来有望とか、そういった人たちではありません。人間的に凄いという人たちです。尊敬できる人達だらけでした。それに、彼らとは同じ釜の飯を食う中であり、共に共同生活をした時間がとても長った分、兄弟のような存在でもあったのです。一生の友達ですね。


さて、次はと書きたいのですが、少々長すぎて、書いてる自分も疲れてきました。
この続きは次のブログで書くとします。

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Author:ゴンベイ
ド~レ~ミ~ってちゃんと歌っているつもりなのに、人からは音外れてるよって言われるんだよね。トントントンってちゃんとリズムを刻んでるって思うだけど、人からは段々早くなっているよって言われるんだよね。でもメロディーもリズムも人それぞれ違うもんだと思うから、人と合わせて調和をとることが大切。そんな私のハーモニー、このブログで奏でていきたいと思う。

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