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2014-04

祖父という人間 - 2014.04.15 Tue

今、東京から福井に向けての新幹線の中である。

祖父である佐藤亀次郎が他界し、葬儀に参列したその帰りである。

歳も歳であるし、こじんまりとした家族葬かなと思っていたのだか、帰ってみると、かなり大きな葬儀になっていたのだ。いちを、直系の跡取りなので、御香典の管理という事で、持ったことのない額のお金をお守りしていたので、式の間、ずっと気が張っていたのだ。今になって疲れがぐっと出て来たのである。

そして、やっと気持ち的に余裕も出てきたので、僕の祖父の人となりをここで記しておきたいと思う。

祖父は新潟県の小千谷出身で、12番目の子だったようだ。ちなみな僕のひいじいちゃんにあたる人は、前妻と後妻がいたそうで、その後妻の末っ子になる。

12人いた兄弟は時代も時代だったそうで2人を残して、他の10人は結核などで若くして亡くなってしまったそうだ。

そんな末っ子の爺ちゃんは、14歳で上京したそうだ。どうやら、実家の佐藤家では、長男家族以外を養う事が出来なかった事から、叔父さんを頼って働きに出たそうだ。

14歳って、僕から考えるとまだまだ子供ってイメージで、これからどうやって生きて行こうなんて考えるなんてまだまだ先の話だと考えてた時期だけど、爺ちゃんは、そんな頃から自分の食い扶持は自分で稼いでいたんだなと感心さそられたのである。

そんな爺ちゃんは、最初は女工さんが働く紡績工場で丁稚を次に銭湯で働いていたそうだ。愛嬌のある爺ちゃんだったからジロちゃんと言って可愛がられていたそうだ。

そんな爺ちゃんの人生の前半はこの年代の人の大きな出来事、太平洋戦争を語らなくては始まらないだろう。

ちっさな頃から爺ちゃんの戦争話しを聞いていたので良くこの話は覚えているのだが、爺ちゃんは三回、命拾いをしているそうだ。

ちなみに、当時は、成人になると、兵役があり、何年間か訓練をしたそうだ。そんな中、訓練兵にはランクが付けららるらしい。甲 乙 丙に分けられるそうだ。爺ちゃんは体が小さい事から乙に分けららたそうだ。乙に分けられた人は衛生兵とか、兵隊さんを助ける兵役につくそうだ。

しかし、爺ちゃんは兵役が終わった後は兵隊さんの物資を運んだりする、貿易会社に入社したのだ。

どうやら、時は戦時中で嫌でも兵隊に行く事になるだろうと思っていた。だけど、兵隊としてではなく、別の仕事で、働く事を選んだのだ。
真相はわからないが、やっぱり兵隊として行くのは嫌だったのではないかな。
だけど、皆が国の為に命を張っているので別の手段で国の為になれたらと思い、貿易会社に入ったのではないのだろうか。今となってはわからないので憶測だが、生前に聞いておけばよかった。

高校生の時である、僕は一時期、太平洋戦争にはまっていた。いやはまっていたということでもないが多感な時期だった当時は9.11やイラク戦争などもあり、戦争について真剣に考えていた時期だったと思う。そしてその時は神奈川県に住んでおり、日本最後の小田原空襲について調べていた。その事を文化祭でビデオ発表をする為に仲間と調べていたのだが、その時、爺ちゃんに戦争体験を聞いたのを今でも覚えている。
その時、おばあちゃんに爺ちゃんの歴史を文書にして残して欲しいねと言われたのを今でも覚えている。

あの時はそうだねと思いつつ、でもまだ元気だからいつでもできるやと思い、何もしなかった。
今思うと、あの時にやっておけば良かったと後悔するのである。

亡くなった今、お爺ちゃんの事を書いていると、その時はどんな思いだったのか、戦後何を感じて生きてきたのか。そんなもっと突っ込んで聴きたい事を聞けないのだから。

だけど、これを機に、お爺ちゃんの過去の事を知っているお婆ちゃん達に聞いてお爺ちゃんの記録をここに書いていきたいと思う。

ちょっと話はずれてしまったが、爺ちゃんの命拾いの話しである。

ますば東京での空襲での話だ。
当時、爆撃機が来ると、警報が鳴ったそうだ。その警報が鳴った時、お爺ちゃんは駅にいたのだ。皆が駅の防空壕の中に、避難するなか、お爺ちゃんは近くに会社があるからそっちに向かって逃げ出したのだ。しかし、そんな検討違いの方向に逃げるお爺ちゃんを見て、防空壕に誘導している人がお爺ちゃんを呼び止めたのだ。早くこっちに来て入りなさいと。

しかし、爺ちゃんは自分の会社が近という事でその呼び声を振り切り会社へと向かっていったのである。

会社に着くと、爆撃が始まり、会社の窓も全部割れてしまった。
しかし、その会社には爆弾が落ちなかったので、無事助かったのだが、外に出てみると隣のビルは全壊していたそうだ。

そして、元来た駅に戻ってみたら、そこは焼け野原であった。そして、お爺ちゃんに防空壕に入りなさいといった、その防空壕はまる焦げになり、そこに隠れた人は皆亡くなってしまったのだった。

もしあの時、会社に行かなかったら、自分も今頃はあの防空壕の中の人のように亡くなっていたのだろうとしみじみと語ってくれたのだった。

次にお爺ちゃんは貿易会社の仕事で、ベトナムに渡る事になったのだ。

そのお爺ちゃんが乗った船の話しである。その船は民間の船であり、沢山の女子供が乗っていたそうだ。色んな港を周り、お爺ちゃんは目的地のベトナムで降りたったのだ。

そこからまた、別の港を通って日本に戻っていったその船は、実は日本に戻る最後の便船であったのだ。だから、海外に駐留している邦人の方々の妻子は戦火を免れるためこの船に沢山乗り込んでいた。もちろん、お爺ちゃんが乗っている間にも沢山の妻子が乗り込み親しくしていた人も沢山いたそうなのだ。

しかし、その船は日本に戻る事もなく米軍の潜水艦に沈められてしまったのだ。

民間の船は攻撃してはいけないというルールがあるのだが、そんな船にも軍事物資を詰んでいたのだ。

その事を知っていた、米軍に沈められてしまったのだが、それによって沢山の非軍人が亡くなってしまったのだ。

お爺ちゃんはそれを戦後になって知ったそうだ。
その中にはお爺ちゃんが仲良くしていた人も亡くなってしまったので、酷く辛い思いをした事だろう。そして、同じ船に乗っていたのに自分は運良く生き残った事にも色々と思った事もあるのではないかと思う。

ちなみに、その船の事は、NHKの歴史番組で取り扱われた事があるそうだ。僕は見た事がないのだが、実は一部、事実無根の事が流されていたそうである。
それを見たお爺ちゃんが、乗っていた船の事だけあり、天下のNHKがこんなものを作るなんてと落胆して怒りをぶちまけていたそうだ。一度も怒った事を見た事がないお爺ちゃんが怒ったとは今だに想像のつかない出来事である。


最後はベトナムでの話だ。
お爺ちゃんは兵隊さんと一緒に軍事物資を列車で運んでいたのである。
その時、艦載機の機銃掃射を受けて列車は止まってしまったのだ。

止まってしまった列車は格好の餌食、すぐさま、お爺ちゃんはその列車からおりて逃げようとしたのだ。

その時、お爺ちゃんと一緒に逃げていた、数人の一団がこの機銃掃射に晒される事となる。

ちなみにこの機銃掃射の威力はどんなものかと昔、どこかで習った事がある。

撃たれた場所には小さな弾の穴しか空いていないのだが、その弾の威力は、高速回転しているからか、穴の空いた反対側は、円錐型に抉ららたようになってしまうのだ。だから、歴史ものの映画で弾が貫通してるから大丈夫だというシーンがあったりするが、この機銃掃射によって撃たれた人は当たれば即死を意味していたのである。

そんな銃撃を受けた、お爺ちゃんの一団は皆、倒れていった。
そして、お爺ちゃんの前を走っていた人、後ろを走っていた人も撃たれて亡くなってしまったのだ。

ちなみに僕のイメージからだと、艦載機の銃撃は、縦に、レールを引いたかのように、弾があたって土煙が上がりながら近づいてくるイメージだ。だから、その射撃内に入ったら、真ん中にいたお爺ちゃんも撃たれていたのではないかと不思議でならない。

どこがどうなって、お爺ちゃんには弾が当たらなかったのかは不思議だが、その時、命拾いをしてるから、今の僕たちがあるので、この話は佐藤家にとって忘れてはならないエピソードの一つであろう。

ちなみに、この戦争話しになるとお婆ちゃんはどうだったのという話しになる。
祖母は府中生まれの府中育ちだったから、空襲自体は経験してない。ただ、東京大空襲により、燃える町の火の明かりを眺めていたそうな。

そして、そんな戦争話しの最後にな必ず祖母が言うのである。

お爺ちゃんは必要があって生き延びたんだと。

ただ、亡くなった人が必要がなくて亡くなったんだという訳ではない。
命とは簡単に亡くなってしまうものだからこそ、生き残った人はその命を尊さを忘れてはいけないよと、僕たちが孫に言い聞かせているのではないかと。


さて、ここまでは、祖父の青年期の話しである。続きを書いていきたい所だがもう、福井に着いてしまう。
東京駅から書いているのだが、やはり、人の一生を書くのには時間が足りないようなので、続きは別のエントリーで書きたいと思う。
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クスワント帰国 - 2014.04.13 Sun

先月からうちの農園は卒業ラッシュである。

去年の夏からウチで毎日のようにバイトをしてくれた大学生。

僕が福井に来る前からずっとバイトしていた古株の大学生

農園で勉強をして、協力隊に合格した研修生。

そして、最後にインドネシア研修生のクスワント君だ。

1人、又1人といなくなるから、残されるこっちの方は寂しくて仕方ない。

そんなクスワント君は今日、帰国したのだ。

昨年もそうであっが、インドネシア研修生とのお別れは、かなり辛い。

だって、もう会うことができないかもしれないから。

そんなクスワント君との思い出話しをしよう。


彼は、他のどの研修生よりも日本語ができた。
というよりも、理解力があった。だから、一番話が通じたと思うのはワントである。(ワントはクスワントのニックネームである。)

だから、僕はワントといっぱい色んな事を話した。

彼は、日本で働く辛さを僕に話してくれたり、また夢を、家族の話をしてくれた。僕も、自分の夢の話をしたり、野菜の授業がなかなか上手くいかない事を相談したり、色んな話をした。

相手の気持ちを理解する力がとてもあったから、話さなくてもわかってくれる所もワントの良さである。

そんなワントともずっと一緒にいれば、ケンカする事もあった。主だって喧嘩はしてないが、ギスギスした時期が続いた時もあった。

それは、僕の方が後輩なのに、立場上スタッフであるから、作業の命令をするのは僕になってしまう。作業の手も遅いし、仕事も自分より知らないし、彼からしたら面白くなかった事もあっただろう。

逆もしかりである、
彼はどこか、自分を守る傾向が強い。だから、仕事で怒られると直ぐに愚痴る。
または、他の人を敵にして、自分を守ろうとするのだ。自分のいない所でさんざん言っているが、目の前にいる時はさも味方だよみたいな接し方をする。

悪く言えば八方美人なのである。


しかし良く考えみると、実はかわいい奴なのだ。
別に農園の誰かが嫌いと言うわけではない。ただ、みんなと仲良くしたいがゆえに、自分が怒られると、自己防衛が故に愚痴を言う。相手に合わせて、話をしているだけである。

最初はそんなワントの性格がわからなかったから、こいつは~と思うことも多々あったが、今はよくわかる。

ワントが愚痴を言っている時は、ああ、なんかあったんだな。

また、怒られたんだな。

特に嫌な事があると直ぐに俺もう帰るはと言っていたのが今では懐かしい。

最初のうちはその事がわからなかったから、僕も間に受けて、そんな事ないとか反論したり、そうか~と同調したり、あーなんか嫌な雰囲気だなと悩んだ事もあったりしたもんだ。

ただ、これは彼と過ごした日々の長さが解決してくれたかなと思う。

人と合う合わないは基本的に僕は無いと思っている。

どう合わせるか、合わせてもらえるかであると思うからだ。ただ自分はこういう人間だから合わしてというだけでは結局は合わないので、相手に合わせる事が大切だと思う。それで、お互いにお互いの事を知っていくことが人間としての成長だと思うのだが、僕はこのクスワント君との関わりで大きく成長させてもらったのではないかと思う。

特に外国人とこんなに濃密な時間を過ごしたのは初めてでもある。(ボリビアでは、動物とばっか付き合っていたので)


そんなワント君とのエピソードはいい事悪い事もいっぱいあるからここで書き尽くす事はできないが、彼との触れ合いは間違いなくこれからの僕とインドネシア人の子達にとの関わりで生きていくことだと思う。


さて、これを書きながら、大きな喪失感もあるのだが、一つ大きな目的への意気込みも強まるのである。

それは来年彼に会いに行くということである。

今、企画も徐々に進行しているのだがインドネシアへのスタディツアーである。
ワントが帰ってどうなっているか。それを見に行くために今は頑張ろうと思う。

さよならワント、そして会いに行くぜ!!

料理教室、学期末テスト! - 2014.04.08 Tue

題名の通り、料理のテストである。
福井に来てからというもの、ずっとこの料理教室をやっているのだか、今回で二度目の試験日を迎えたのだ。

さてさて、昨年は卒業した、タタン君はキャベツの生姜醤油和えをワント君はお好み焼きを作ってくれたが、今回は一年間一緒に勉強した、彼らは何を作るのであろか。

そして、今までやってきた事はどのような形で現れるのだが、ワクワク、ドキドキの時間である。

そんな僕の目の前に現れたのが、これだ。



おおー
味噌汁にキンピラゴボウ、牛丼である。
ご飯がもう一個あるのは触れないでおいて。

インドネシア人が日本人の僕に和食を
振舞ってくれるなんて、二年前は考えられなかった、光景である。
しかも、バランスも考えている。ご飯が一個多いが、、、

さてさて、それでは味の方である。
まずは2年生のカメさん。
彼が作ったのは、味噌汁。
具材は盛りだくさんで豆腐、ワカメ、薄揚げ、ネギといった、これぞ味噌汁という具材チョイスでる。
いつも野菜をドボドボ、なんでも入れるだけであったスープが、日本人の好みをよくわかっているではないか、いや
僕の好みをわかっているではないか、素晴らしい。

ちょと味が濃かったが、とても美味しい味噌汁であった。

次にキンピラゴボウを作ったのがウサギ
さん。
以前、作った時は炒め過ぎで、しなしな、味もやっぱり濃かったのだが、それが全て改善されてシャキシャキでとっても美味しくできていたのだ。だだ、鷹の爪を入れすぎてみんなヒーヒーいっていたが、それでもウサギさんのキンピラゴボウは美味しかった。

そして、最後が牛丼である。
実はこの牛丼、僕とワント君が始めて一緒に作った思い出の料理なのである。

あの時はたいして料理なんかできない、僕が料理教室の先生なんてやってもいいのだろうかと、戸惑いながらも最初にワント君に教えた料理なのだ。

その時、ワント君に作ってもらった牛丼は実は甘ったるくて、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。
そんな彼が、2年間、僕と一緒に料理教室をやってみて、どのようになったのか、ある意味楽しみであったのだ。

そんな牛丼を最後に食べてみると、嬉しさと美味しさで頬が落ちそうになったのだ。

もう、完璧である。
それしか言いようがない出来であった。
これ、インドネシアが作ったんですよと言わなければ、誰もが日本人が作ったであろう味なのだ。

この授業では、日本人の好きな味を知るというのも学びの一環であったが、僕自身はそこまで重要視をしてるわけではなかった。なぜならもし、インドネシアに帰って、僕が教えた料理を作る事があったとしても、それを食べるのはインドネシアの人達たがら、その人達の舌に合うように、作ればいいと思っていたからだ。

しかし、そんな僕の考えを超えて、ワント君の作った牛丼は日本人の舌に合う味であった。

難しい言葉が通じない、わかってるのか、わかっていないのか、わからない。そんな中での料理教室。
時にはやっている意味あるのかなと思う事もあったが、この一杯の牛丼のおかげで、全てが救われる気がしたのである。

ちょっと目頭が熱くなった事は秘密である。


それにしても、今回のインドネシアの子達の料理、僕以外の料理教室に関わってくれた人達にも是非食べて欲しかった。

1年目、毎回のように、料理教室を支えてくれたMさん。2年目から料理を一緒に教えてくれた、K君。
彼らの手伝いなくして、ここまで続ける事はできなかったと思う。2人には大いに感謝である。

さて、このなんとも言えぬ達成感をもって、3年目の料理教室も頑張って行きたいた思う。そのために野菜ソムリエもとったんだし~

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プロフィール

Author:ゴンベイ
ド~レ~ミ~ってちゃんと歌っているつもりなのに、人からは音外れてるよって言われるんだよね。トントントンってちゃんとリズムを刻んでるって思うだけど、人からは段々早くなっているよって言われるんだよね。でもメロディーもリズムも人それぞれ違うもんだと思うから、人と合わせて調和をとることが大切。そんな私のハーモニー、このブログで奏でていきたいと思う。

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