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2015-02

苺の食べ比べ - 2015.02.27 Fri

少し前の話しであるが、野菜ソムリエの勉強会でいちごの食べ比べをしました。

果物の食べ比べって一人じゃなかなかできないので(予算的にも量的にも)かなり重宝している機会なのです。

なんか、野菜ソムリエっぽいですしね。
このいちごの品種はこういう経緯でできて、こういう味がするとか言えたらかっこいいので。

ただ、まだまだ未熟者なので、今回は食べ比べたいちごの事について書き残しておこうと思います。



今回食べたいちごは
写真の一番上から時計周りに
女峰 さちのか べにほっぺ あまおう さくらももいちご あその小雪です。

まずは「女峰」
昭和60年代から約15年間、いちごの2大品種の時代があったそうなのですが、その2大品種の一つがこの女峰という品種だったそうです。
ちなみに、今この女峰はほとんど出回っておらず、今回やっとの思いで入手した貴重な品種だそうで。
ただ味はというと30年前の品種なので、今の品種のいちごと比べると甘みがすくなく、けっしてうまいとは言い難いのですが、逆に自己主張の少ないぶん、ケーキなのどとのスイーツとの組み合わせには合うのではないかと思いました。

つぎに「さちのか」
さちのかは、女峰と対をなした2大品種の一つ、「とよなか」という品種の系統を含んだ品種だ。
ちょっと古いがスピードワゴンふうに「甘ーい」という叫びたくなるあまさだ。他の品種と比べても、いちごの甘さを凝縮させた蜜を食べたかのような甘さであり、個人的にはこれが一番おいしかったのである。


「紅ほっぺ」
その「さちのか」の系統を含んで2002年に品種登録をしたのが「紅ほっぺ」である。
名前の由来はほっぺが落ちるくらいコクがあり美味しく、また親しみを持ってもらえるようにという願いが込められているそうな。
そのお味は、「さちのか」ほどではないが甘く、水々しい触感と甘さをバランスがよくいくらでも食べれそうないちごでした。

「あまおう」
いちごの品種というと僕の中では一番よく聞くのがこの「あまおう」
その容姿は他のいちごと比べて一回り大きいのです。味は甘みと酸味のバランスが良く、果実が充実してて食べごたえがあるという所が「あまおう」の魅力でしょう。
現在は福岡の生産者限定の栽培しか認められていないのですが、こちらの名前の由来も面白い。
いちごの品種登録をするときに県内の公募によって命名されたらしいのですが、「赤い」「丸い」「大きい」「うまい」の頭文字をとったものだそうで。もちろん「甘いいちごの王様になれるように」という願いも込められているそうです。

「さくらももいちご」
こちらは、ちょっと聞いた事のない名前のいちごで、徳島県の佐那河内村で作られています。
本来の品種名は「ももいちご」というのですが、その中でも高品質の厳選されたももいちごの中のももいちごが「さくらももいとご」と呼ばれて販売されています。

ちょっとネットで検索してみたのですが、特選20粒特製化粧箱入りで10000万円、、、

食べてみた感想は、甘みが柔らかくて癖がなく、みずみずしさも「紅ほっぺ」よりも増し、果肉を食べているというよりも果汁を食べてる錯覚に陥る美味しさでありました。また是非食べたいですが、高すぎるので多分もう二度と食べれないと思います(笑)

最後に「あその小雪」
その見た目の白さから、これ甘くないでしょうと視覚から脳が洗脳されるのですが、食べてみるといちごのあの甘みが広がる、新感覚。言葉で表現するのは難しいのですが、なんか騙された感覚になります。

この「あその小雪」は実は熊本県の高校生が世代をまたいで、12年の歳月をかけて作った品種なのだそうな。
その思いは、いちご農家の経営が厳しくなるなか自分たちの品種を開発し、阿蘇市の農業を盛り上げたいという事で平成24年に品種登録ができたそうです。

さて、今回は6種のいちごの食べ比べをしたのですが、世の中にはまだまだ色んな品種のいちごがあります。
いちごの歴史をひも解いてみると、いちご戦争なるものが繰り広げられているそうです。
第一次東西いちご戦争を皮切りに、2大品種時代「とよのか」VS「女峰」などと以前は東西間でいちご戦争が繰り広げられていたそうですが、今では日本全国に色んな有力な品種が分布している群雄割拠の時代になっているそうです。


そうそう、実はいちごにも花言葉というものがあるそうです。「幸福な家庭」
いわれはいちごの親株からつるがたくさん出ている様から(いちごは、親株からツルが出て、そのツルが根付いた所から新しいいちごの株ができます)「幸福な家庭」であるそうです。なるほど。

様々ないちごの品種間商戦が繰り広げられているとうのを垣間見ると、いちご農家も大変なんだなと思うのですが、いちごの花言葉のようにいちごを作って幸福な家庭を作ってほしものです。
そう思うのも、僕も農家だからでしょうかね~














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ウサギとカメと私 - 2015.02.24 Tue

昨日、二人の研修生が福井からインドネシアに帰って行った。

以前のエントリーでウサギとカメという題名で二人の事を書いたのだが、それはまるで二人の人間関係が、童話のウサギとカメ見たいだったからだ。

そのエントリーからもう2年、二人の日本での物語の結末は、決してウサギとカメの物語では表せるものではなかった。

まずは紹介しよう。

ウサギさんことイラ ソバルナ

3年前のイラ君


現在のイラ君

匂いを嗅ぐだけで嫌いだった納豆を最後は毎日のように食べていた。
人の味覚はかわるのですね~

そして、カメことカダルスマン君

3年前のダルス君


現在のカダルスマン君

初めて会った時は、全く日本語が喋れず、意思疎通ができなかったけど、3年も過ぎると凄い喋れるようになった。最初は無口で真面目な奴だと思っていたけど、そられ喋れなかったから、喋れるようになってよく話す子なのだとわかった。

二人はどんな人間だったか。
端的に表すとイラ君は愛嬌のある奴。
たまに、こいつとイラっとする事が度々あったり、その苛立ちをもカバーする人懐っこい笑顔があり、ついつい許してしまう可愛らしい一面があったのだ。憎めない奴ってこいつの事を言うのだろう。

ダルス(カダルスマン君の愛称)君は不器用な奴
真面目なんだけど、どこが要領が悪いというか、たまに何を考えているかわからない、いや何も考えていないか、仕事中、仕事以外の事を考えているのだろう。的を得ない事ばかりして、多分農園で一番親方の怒声を浴びたのではないだろうか。だからとは言わないが、一番目が離せなかったのは言うまでもない。

そんな二人の物語と、そして僕自身との関わりを書こうと思うと、小説が一つ出来上がってしまうほどの長編になってしまうので、それは僕の心の内にしまっておくことにして、一つだけ書きたい事を書こうと思う。

それは二人に教えてもらった事
彼らは2012年の2月、僕は2012年の4月に福井に来た。
数か月であるが少し先輩の二人、ただ同じ年に入ってきたから、二人は僕にとっては唯一の同期であったのだ。

そんな二人と僕の関係は1年目は友達であった。
色んな話をしたと思う、色んな所に行ったと思う、色んな事をしたと思う。今思い返すとその時に二人と過ごした日々は楽しかった。

しかし、二年目から二人と僕の関係は先生と生徒になった。
野菜の授業は2年生からという事で、僕が指導する立場になると、二人の授業に対する意欲がない事に、どうしたらいいか試行錯誤をしていた。そして時には喝を入れたり、個人面談したりと1年目とは違う関係になってしまっていた。

そして、三年目の二人と僕の関係は上司と部下になっていた。
手を抜くイラを叱ったり、意味不明な行動をするダルスを叱ったり。そして自然と二人との会話が少なくなっていったのだ。

というか、僕はどこの立場で二人と接すればいいのか解らなくなってしまっていた。
だからであろう、スタディーツアーに参加したのはそんな彼らとの関わりをどうしたらいいのだろうかと見つけに行く旅であったのだ。

そして、スタディーツアーを通し、二人が帰った事で、その答えが見つかった気がする。
立場なんて考えずに二人と接すれば良かったと。そう、ただ二人の話を聞いてやるだけでよかったのだと。

ダルスと個人面談をした時に僕がビックリするぐらい、ダルスは堰が切れたかのように話続けた。ずっと溜まっていたものがあったのだ。そしてもっと話をする機会を持ってやればよかったと。
イラが黄色信号を出している時に、気づいてたのに、その信号をキャッチしてあげられなかった事。時間を作ってやればよかったと。

今、思い返すと、そんな機会は沢山あったのに、そこまでできなかった事に反省である。
ただ、彼らには、他にも二人を支えてくれる人が沢山いたから、無事に日本での3年間の研修を終える事ができたのである。

ちょいと、反省の内容になりがちになってしまったが、僕は二人のおかげでだいぶと成長させて貰ったのである。
農業をしながら、国際協力というのは、人に話す時にはとてもかっこよく見えるが、実際は簡単ではないことが分かっていたが、身に染みて実感した事、そしてどうしていったらいいのか、二人と過ごした3年間で教えてもらったのだと。反省はいっあぱいあるが、その反省が学びであるからこそ、成長できたのだと思う。

そして、二人もだいぶと成長した。
3年前の二人の写真と今の写真を見比べるだけでもその成長ぶりが伺える(笑)
そして、彼らが何を得て今後何をなしていくかは誰にも分からないが、二人と過ごした3年間は、お互いに学続けた、切磋琢磨した時間であったのだと今になって思えるのである。

そんな二人にありがとうと感謝の気持ちをこのブログから届けたい。
そして、3年間、お疲れ様でした。







彼らとの別れで、僕の中で一つの時代が終わった気がする。

それは、同期であった二人が居なくなり、寂しさからくるものであろうか、
それとも、二人から教えてもらった沢山の事からであろうか、
はたまた、無事に二人が母国に帰った安堵感か、

多分、すべてであろうが、そこで、少しその余韻を味わいたい所である。

しかし、そんな余韻に浸っている暇はどうやら無いようだ。なぜなら物事は止まってくれないから。

とある言葉で、経行という言葉がある。
歩きながら考えていくという意味であるが。
今の自分にはそんな言葉がしっくりくるのである。

さて、二人から学んだ事を無駄にしないように、次に進みましょうか。













一杯のお茶 - 2015.02.21 Sat

デンパサールの空港での出来事である。

なけなしのお金で、ペットボトルのお茶を買った。
ホントはフルーツの生絞りジュースを買いたかったのだが、お金が足りずに仕方なく買ったのだ、それは喉を潤すどころか、逆に水をおくれと懇願したくなるような甘たるいお茶であった。

すっかり失念していたことだが、この国も例に漏れない、甘たるい飲み物を好む国であった事を。
しかし、僕自身がその事を失念するには訳があったのだ。


ペットボトルのお茶を購入するちょっと前の出来事である。
ツアーに参加したメンバーが、インドネシア研修生のおもてなしについて話していたのだ。

話し手は、インドネシアに住んでいた方々で、ワントの村で、甘いお茶が出なかった事に驚きを表していたのだ。
彼女らの話から、インドネシア人は非常に甘い飲み物を好むといっていたのだ。確かに日本でタタン君とコーヒーを飲みに行った時、彼はコーヒーに砂糖を5本入れていたのが脳裏に甦えったのだ。

ただ、ワント君はコーヒーをブラックで飲むのが好きであったから、ただ彼の好みで甘くないお茶が出たのだと、いやむしろそこに、おもてなしの心があったことすら気づかなかったのだ。お茶は甘くなくてあたりまえでしょと

それを、二人から教えられたのだ。
普通、インドネシアで歓迎を受ける時は甘いお茶が出て当たり前、それがインドネシアでの習慣であり、おもてなしなのだから。そこで、甘くないお茶を出すのはインドネシアの文化ではありえないと。

そして、その甘くないお茶は日本人が甘いお茶を好まない事を知っていたワント君たちからの気遣いであると。

その話を聞いて、頭では理解できて、非常にワント君たちの気遣いにありがたく感じたのだが、その時はそれ以上に思わなかった。

ふーんそうなんだというレベルで

そこに冒頭のペットボトルのお茶である。
結局、このお茶は飲みきれず、捨てる羽目になってしまったのだが、こんな甘いお茶をツアー中、飲まずに済んだのは、ワントらのお蔭であったのだとやっとここで痛感したのだ。

今、思い返せば、農林高校での歓迎の席で、実はめちゃくちゃ甘いコーヒーが出された。
僕の隣に座っていたワントがそのコーヒーを飲み、僕以上に悪態をついたのだ。このコーヒーは甘すぎると。
そして僕に謝るのだ、ごめんコーヒー甘すぎるねと。
その時は、ワントがブラックが好きだから彼の好みに合わなかったのだろうぐらいにしか思っていなかったし、なぜ謝るのか全く意に解していなかったのだ。だが、今ならわかる。

その後、全く甘いお茶が出てこなかったのも、彼が甘いコーヒーに悪態をついたのも、僕に謝ったのも。
日本から来た僕らへの彼らからの気遣いであった事も。

それは彼が3年間、日本人と共に仕事をしプライベートを過ごして得られたものだと


話はまとめに入ろうと思う。
インドネシア研修生と3年間過ごした事で、僕にはやり場のない思いがうっすらうっすらと募っていっていた。
このプログラムを初めた代表を始め、この活動はボランティアである。正直言うと、このボランティアに相当な時間を取られていた。しかも代表は身銭をきってまでやっている。

仕事をすればお金が、ボランティアをすれば精神的な喜びを得られるのがセオリーであるが、現状ではそれを得られる事が全くできず、ワントとの再会のエントリーで書いた通り、なんのためにやるのか分からなくなっていたのだ。
まぁ、何か見返りを得るためにこのプログラムに参加したわけではないが、僕も普通の人間、これが自分の子供であったら、または恋人であったら、無償の愛情で接する事ができたのかもしれないが、あいにく、彼らは僕の子供でもないし僕は同性愛者ではないのでもちろん恋人でもない。ただの他人であるのだから。

そんな事を書いてしまうと、ちょっと寂しい人間に思われてしまうが、そんな事はなく、むしろ他人だけど、彼らのために何か役になりたいという気持ちは人一倍あるとは思っていた。

ただ、その思いが強いがゆえに、独りよがりの考え方に陥ってしまっていたようだ。
自分の意図した結果が欲しいと。

けど、その結果、返ってきたものは自分の期待したものとは違い、僕のやっている事は本当に意味があるのだろうかと。それがゆえに僕のモチベーションとクオリティーが自分でもわかるぐらい下がっていっていた。そして今思うと、それは彼らには大変悪い事をしたと。

さて、そこで今回のスタディーツアーが僕に一つの答えをくれたのだと思う。
それは、自分の意図した結果を得る事ばかりに目が行っていたゆえに陥ってしまった今の現状。
しかし、帰っていった彼らは、僕の意図していなかった事だけど、3年間の日本の生活で実は沢山の事を得て帰っていったのだ。それを最後の最後にペットボトルのお茶を飲むことでしっくりと自分の中でストンと落ちたのであった。

だから今なら思える。これからは、自分の意図した結果を求めるのはやめようと。それは一人よがりな考えであり、人はそれぞれ性格も感性も違うのだから、それぞれ学ぶ事も違うのは当たり前なのだから。スタディーツアーに参加した人たちもそれぞれに感じた事が違うのにそんな当たり前の事に今まで気づけないでいたのである。むしろそれよりも、自分の意図しないものを彼らが3年間で何を得ていくのか、それを楽しみにしていけたらと思うようになったのである。ワントの日本人への気遣いのように

そして、もう一つ、このツアーに参加してよかったのは、インドネシア研修生に関わる人たちの想いを知れたことも大きかった。一緒に仕事をしているが、やっぱり仕事中に深い話をすることができなかったので。そして、とてもありがたい機会を頂いた事を関係者一同の御礼申し上げて、この一連のスタディーツアーのエントリーを終わりにしたいと思う。

皆様、大変お世話になりました。













松山農園訪問 - 2015.02.18 Wed

さて、話は彼らの故郷、スメダン地区から飛んで、バリの松山農園での事です。


決して観光じゃないですよ、ちゃんとした視察のために(汗)


場所はベドゥグルという所で、インドネシアの5万ルピアの裏面の絵になっている場所がある、とても綺麗な所にあります。


松山さんは、僕と同じ青年海外協力隊の出身の方で、協力隊終了後直ぐにバリで営農されたそうで。
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しかも、帰国してから5日ぐらいで、直ぐにインドネシアへとトンボ帰り。
その行動力に脱帽であります。

松山さんの農園では、桃太郎という、日本ではちょーメジャーなトマトを栽培販売しています。

その他にはアイコトマトや黄色いミニトマトまで。
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因みに、全て無農薬で作られているそうで、とういうか、契約している取引先が無農薬を欲しがっているということで、完全無農薬で作っているのです。

そして、ハウスも自前。
以前、農業を学んでいた場所でハウスの作り方を覚えたそうです。
資材集めから、ハウス作り。自分が同じ農業者なのに、同じ事ができないと思うと、正直に凄いなと感心したのでした。
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そして、そんな松山さんに、今回、一緒にツアーに参加した学生さんから、とある質問が投げかけられたのです。

農業という仕事は儲からないし、なぜ、わざわざインドネシアまで来て農業をしているのですかと。

そして、それに対する松山さんの明瞭な答えが返ってきたのです。

「好きだから」

そんな言葉やその他の沢山の名言にこれから自分の将来を決めていく、学生さんにとって、とても貴重なお言葉であったと思います。
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そして、僕自身も、松山さんの言葉を聞いて、僕も農業が好きだー
同じ人がいる~、時間が許せばどんだけ農業が好きだという話をしをトコトンしたいと思ったのでした。

そして、外国で農業をやるその気持ちの強さからもっと学ばせて欲しいとおもったのでした。


新しい沢山の出会い - 2015.02.13 Fri

今回のスタディーツアーでは沢山の方と知り合う事になった。
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農林高校での集合写真

まずは、一緒にツアーに参加した、名古屋の大学生3人
僕の無茶振りにも関わらず、恋するフォーチュンクッキーを踊れるようにしてきてくれて、大変場の雰囲気を盛り上げてくれたり、それぞれの視点を持って、ツアーに参加し、僕の視点からでは見えない物を教えてくれた。

次に、農林高校で知り合った、関係者の方々。
その中でも、日本に留学経験のある子達だ。僕らに会うなりに、日本語で話しかけてくれた事には、異国の地に来て、言葉が通じないとう環境の中からしたら大変ありがたい存在であった。
そして、その何とも言えない愛嬌と気の良さにとても癒されたのである。

次に、研修生の家族。
今回は、ワントと研修2期生のイルファン君の家族しか会えなかったが、それだけでも嬉しかった。
特に嬉しかったのは、ワントのお父さんと会えた事だ。
なぜなら、彼のお父さんの話はワントから散々聞かされていたからだ。
そして、彼の彼女に合えた事も。

そして、研修1期生のヘンドラ君と研修2期生のイルファンに出会えた事である。
この研修プログラムに参加しているものの、僕自身はその2人の事を知らなかったのだ。

二人の印象としては、噂通りの人で、今までの研修生で別格とうたわれるヘンドラ君は別格と言われる由縁のオーラを纏っていた。厳格と聞いていたイルファン君もその真面目さが滲み出ていたのである。

それぞれに色々な事を感じたが、ここでは一つのエピソードを紹介したいと思う。

「親方とイルファン」

二人の再開と別れでの事である。

二人は出会った瞬間そして別れる時、目に涙を蓄えてあつい抱擁を交わす姿に、僕らは感動したのだ。

イルファン君は、3年間、ずっと一緒に親方と仕事をしていた。
うちの農園では、研修生が全部の部門を回れるようにと、学年ごとに違う人に付いて仕事をするのだが、イルファン君だけが、その時の事情により、3年間ずっと親方と一緒だったのだ。

そんな二人の心中はどうであるのかそのうちは分からないが、二人の過ごした時間、そして普段あまり語らない親方と、また自己表現が上手ではない(他の人から聞いた話)イルファン君が目に涙を浮かべている姿に、再会を喜び、別れを惜しむその姿に心が打たれたのだった。

そんな感動的なシーン、実は沢山写真があるのだが、こればかりは、写真では伝わらない、生の雰囲気という物があるので、写真は載せず、皆様のご想像にお任せしたいと思う。






参加メンバーから教えられた事。 - 2015.02.12 Thu

話は、ランチャカロン村での出来事から前後するが、今回一緒に参加した、3名の人達から教えてもらったことを紹介したいと思う。



今回の通訳兼日程の調整を担当し、インドネシア研修生を一期生から知っている、我らが頼れる「耕志の会」の顧問、
おぐにんから教えてもらった事である。

彼女はその堪能なインドネシア語から、僕らがしゃべる事のできない、農林高校の先生や色んなインドネシアの人達との話を教えてくれたのだ。

その一つで、とても印象的であったものがある。

研修生を送り出している周りの人たちは、帰国後の研修生に期待していることがあった。
それは、日本の技術を学び、それを導入して営農または、その学んだものを活かしてほしいと思っていたそうだ。

だから、周りの人達は日本の技術を学ばせたいから、研修生をもっと送りたいのだと言っていた。
しかし、そんな研修生を送りだしている周りの人々の考えは、毎年帰ってくる、卒業生達の姿を見て変わっていったのだ。

彼らが得て来たものは、日本の技術という物ではなかった。なぜなら日本の技術を持ち帰った所で、彼らの農業に適していない物ばかりであるからだ。
ただ、そんな彼らが得て来た物は日本の技術よりももっと重要なものだった。
視野が広がる、違った視点で物事が見れる。そういった能力を身に付けて帰って来たのだ。

そして、そんな他とは違う考えで物事を見れる研修生達が、しっかりと、地元に戻って営農や仕事に勤しんでいる姿を見ているから、彼らを送り出した人達も考えがかわったのだろう。日本に研修に来る本当に大切な意味に。

そして、研修生を送り出していた当初は、日本の農業技術を学ばせる為に研修生を送りたいという意見から、日本に行くことで広い視野が得た子達を育てたいという想いから研修生を送り出したいと変わっていったのだと。

それをおぐにんから教えてもらった時、このプログラムを始めた「耕志の会」代表の事を思い出していた。
最初に、僕自身がこの会に入る時に、代表が言っていた言葉だ。

このプログラムを通して、考える農民を作りたいと。
代表も青年海外協力隊の出身で3年の任期の間に色々な事を考えてきたのだと思う。
そこからその地域の発展に必要なのは、外国人の隊員では無く、技術でもなく、お金でもない、その地域を本当に良くしたいと思う、青年の育成なのだと。

それが考える農民なのだと。

だからこそ、代表が妥協せず、諦めず、厳しく研修生に指導してきたその報いが、実りつつある事を知り、大変嬉しく感じたのであった。


次は、今回、団長として参加してくれた我らが農園の親方の話である。
スタディーツアー最終日に二人でゆっくり話す機会があったのだが、その時に、僕から一つ質問を投げかけてみたのだ。
これは研修生だけに関わる話ではないく、僕ら日本人スタッフを含めての話である。

研修生は言葉ができない事から、僕らスタッフは経験不足から、親方を怒らせる事が多々、いや毎日あるのだ。
正直、親方はおっかない、みんな怒られないようにといつも必死である。
ただ、逆を返せば、親方はこんな僕らを受け入れて、いつも怒らせ、嫌な思いをさせているのではないのかと思っていたのだ。外国人研修生を農業素人のスタッフを受け入れなければ、そんな嫌な思いをしなくて済むのではないのかと。

そこで、おっかないが、今聞かなくていつ聞くの今でしょと、お酒に酔った勢いで質問してみたのだ。

そして、返ってきた答えは意外なものであった。

「俺は楽しい」

というものであった。
仕事に対しては、色々と言うし、怒るがそれは俺が仕事に対して非常に厳しいからだ。それはそれ
しかし、若い連中がうちに来て、成長していく姿を見るの楽しいし、君たちがうちに来てくれた事が嬉しいという事を教えてくれた。

そして、もっと君たちには学んでほしい、俺は聞かれなければ教えてやることができないから、もっと質問してほしいと。

今まで僕は寡黙に仕事に勤める親方に対して、またいつも一緒に働いているのに、その思いや考えを聴くことをできずにいたのだ。いかに自分が怒られないように、いかに研修生が怒られないように、気を付ける事ばかりに目が向いていたのだ。

でも、その親方の本当の思いを聴くことで、親方の僕らへの深い思いがある事に気づけたのだ。
怒るも愛情、その愛情に気づく事ができたのは、このスタディーツアーに参加したもう一つの大事な気づきであった。


最後に農園たや~ず(仮)のメンバーであり、農園のパートさん、A型ぽくないA型さん(長いので以下A型さんで)から教えてもらった事である。

それは、インドネシアスタディーツアーに出発する数日前の事である。
卒業生のために農園の皆からメッセージビデオを撮ろうとのことだった。

もう出発も近し、今から撮影かと少し面倒くさい思いがあり、しぶしぶ撮影を開始したのだが、撮影を始め初めてふと気づいたのである。

僕って自分の今のこの気持ちに何か変えるきっかけが欲しいから、または企画側として、しっかりしたツアーにしなくてはという気持ちばかり先行して、これから会いに行く卒業生の事を考えていない事に気づいた。
自分よがりの考えで僕は動いていたのだ。

しかし、A型さんは違った。
卒業生に会いに行くのだから、彼らが喜ぶであろう、農園のみんなのメッセージを撮ろうと提案したり、ツアー中では今度は農園のみんなのために、卒業生のメッセージビデオを撮ろうと提案してくれた。

その他にもA型さんのツアー中でのその端々の行動から、人への思いやりの行動が見て取れたのだ。

正直、僕は鈍器で頭を殴られたような衝撃をうけた。
一番大切な事を忘れていたからだ。仕事をスムーズにする、授業をより良いものにする。
そしてそれができなくて困っている。だからそれを改善するため、または自分のモチベーションを上げるために、ツアーに参加した、自分の一人よがりな思考に。

そう簡単に会う事のできない卒業生に会いに行くのに、何してんだろう。
そして今いる研修生の子達に対しても自分よがりな考えで接していた。

そんな自分の至らない部分をA型さんの行動から教えてもらったのだった。




















ワントとの再会 - 2015.02.11 Wed

ずっと、考え続けている。

僕はなぜ、インドネシア研修生のために自分の時間を割いているのだろうかと。

健康改善のために教え始めた日本食料理も、彼らは全然作ってくれないし、野菜の授業に対しても彼らからはやらされている感がその授業内容からムンムンと感じるのだ。

まぁ、もともと僕自身が先生という、人に物を教えるのにむいていないのもあるし、彼らの事をよく理解してないのもあるから僕がもっと成長しなくてはと、色々な事に挑戦し、試行錯誤してみた。

でもそれでも、うまくいかない事が多々ある。
大げんかすることもあった。
シカトを喰らう事もあった。
殺すぞと言われたこともあった。
今、思い返すと、色んな事が思い出されていく。

ただ、誤解がないように書いておくが、毎日が辛いという事ではなく、基本は楽しく過ごしているが、そんな彼らのために自分は自分の時間をなぜ使っているのだろう、どうしてこうも前の見えない事に対してもがいているのだろう。辞めれば楽なのに。


だからだろう、僕はこのスタディーツアーに藁をもすがる思いで参加したのだ。
現地に行って、ワントに会ったら何か見つかるのではないのだろうかと。

そんな思いを胸に秘めて、会いたかったのが4期生、クスワントである。
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そして、彼とは研修生の母校で再開した。
だいぶと痩せて、髭をたっぷり蓄えたワント

見た目は少し変わっていたが、あのクリットした目が特徴のワントの笑顔は変わらなかった。
そんな彼との再会で、今まで考えていた事なんてどっかふっ飛んでいってしまった。

素直に彼に合えたのが嬉しかったから。


さて、ワントの話をしよう。

彼は帰国後、クローブの栽培で生計を立てていくと言って帰っていった。
ただ、クローブの木は植えてから収穫までに最低3年はかかるとの事で未だにその実りは得ていないが。

だけど、一緒に日本でのクローブの販売ルートについて、調べたり、研究発表の準備をしたりしたからだろうか、彼の新しく植えた苗を是非とも見たかったのだ。

今回のスタディーツアーの大目玉はなんといってもワントの村、ランチャカロン訪問で、そのどうしても見ておきたかったワントの畑を見る機会にめぐり合わせたのだ。

綺麗な棚田の広がるランチャカロンの畑の風景。
そんなところまでもと、人の手の届くとこすべてが畑と化している。
個人的には、こんな所で農業ができたら毎日が心洗われる素敵な場所であった。
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そして、ここがワントの畑
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彼の畑の違う所は、やっぱりマルチを使っているというところである。
インドネシアの物価から考えて、決して安くはない農業資材なのだが、その利便性を十分理解し、やっぱりマルチは必要だよねと語るワント。彼の中で生きた日本での経験が繁栄されている所に、嬉しさを感じるのである。


さて、クローブである。
最初の畑は、元々、ワントの家が持っていた土地であり、かなり彼の家から近い所にあったのだが、研修で貯めたお金で買った新しい畑はちょっと離れた所にあったのだ。

せっかくだからその畑まで見にいきたいという日本人メンバー
だけど、遠いよと、何か心配した顔でほんとに行けるかと確認をとるワント。

なんで、そんなに心配してるんかなと思っていると、そのわけはワントの新しい畑に行くまでの道のりにあった。
これは道ですかという所を通り、これは坂ですか、いや崖、というようなところを通る。
しかも、雨で地面が濡れているかrらる滑る。

目的の畑に到着するまでに、女性人の悲鳴が幾度となく聞こえたのは、ご想像にお任せしよう。

そして、やっとご対面した、ワントのクローブの木である。
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まだ、小さく、弱弱しい感じであるが。
これがワントのクローブかと思うと、なにか感慨深いものを感じるのである。

実を付ける事はないが、これから大きく成長していこうとするそのさまは、まるで今のワントを表しているように。

今は彼は兼業農家である。
まだまだ、農業だけでは食っていけないという事と、彼自身もっと勉強をしたいという事で、農薬の会社に勤めている。
働きながら、農薬の事も勉強できるからと、仕事にいそしんでいる。

そして、彼には夢がある。
日本のいるときに、実はクローブの研究の一環で、カフェに一緒に行ったのだ。または場所だけ教えて自分一人でワントはカフェを見て回った。

その時に彼はクローブを使った飲み物をひたすら飲んだのだが、その経験から、自分の作ったクローブやお茶を使った喫茶店を作りたいと言っていた。その思いは帰国しても変わらず、しかもその構想はパワーアップしていたのだ。

ワントの彼女が、なんとお菓子作りのプロなのだ。
そこから、今のワントは自分の作ったクローブやお茶と彼女の作ったケーキを出せる喫茶店を作りたと僕に話してくれた。
是非ともその夢、叶えてほしいものである。

そんな彼の家族の写真である。
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やっぱ音楽ですね~ - 2015.02.10 Tue

やっぱりこの下りは書かなくては。

今回は2回ギターを弾く機会を頂いた。

一回は目は農林高校での交流会で

二回目はワント君の村の小学校で。


マイギターを持って行くことができなかったが、それでも、どちらとも大盛況であったのは言うまでもない。
それもこれも、今いるインドネシア研修生の子達が教えてくれたインドネシアの曲(お祭りで歌ってくれた曲)と、インドネシアに進出してくれた、JKT48のおかげである。



さて、その中で、今回一緒にスタディーツアーに参加してくれたタッチーがいい事を教えてくれた。
タッチーは大学生なのだが、1年間のインドネシアへの留学を経験している事からインドネシア語が堪能である。

そんなタッチ-が、今回、高校生と一緒に歌った「ブディドレミ」という歌に大変感動したと言って、交流会終了後に僕の歌詞カードを見せてくれと言ってきたのだ。
そして、すぐさまその歌詞を自分のノートに書き写して、この曲いいですね~とだいぶとお気に入りの様子であった。

どんな曲か気になる方こちらへ
Budi doremi
https://www.youtube.com/watch?v=HTwN-f2t3Ag


その時はなぜこんなにもこの曲が気に入ったのか、よくわからなかったのだが、後から聞いた話しではこの曲の歌詞に僕の思いもよらない意味があったのだ。


あなたは遠くに行ってしまうけど、どんなに遠くにいっても僕はあなたの事を忘れない。あなたがどんなに遠くにいてもいつもあなたの事を思っている。
そんな遠くへ行ってしまう大切な人へ向けた内容の歌詞であったのだそうだ。

そして時に歌は、その時のシチュエイションと相まって、人の心に残る名曲になるのだが、この交流会が彼女にとってそうであったようだ。

日本人とインドネシア人の一夜かぎりの出会い、この宴が終わった後にはまた遠い所に行ってしまう、そんなお互いに対しての思いやりの意味が込められた歌であったから。

そして、僕自身、意味も知らずに今いる研修生の子と歌っていたが、この歌の歌詞の意味を知った事によって、非常に思い入れの強い歌になった。

帰った研修生、これから帰る研修生の事を思って次からはこの歌を歌っていきたいと思う。




さてさて、話はまだ中盤であるが、大成功に見えた音楽での交流。
確かに大変盛り上がったが、全員が全員、楽しんでいたわけではない。

よく周りを見渡せば、席について踊りに参加しない人もちらほら。
やはり、音楽で全ての人と交流できるわけではないと、好きな人もいれば嫌いな人もいる。
そんな事も再確認する機会になったのであった。

タタン ローマットとの再会 - 2015.02.08 Sun

正直に言おう。

僕の農園での目標は3期生のタタンであった。
(2012年に僕が農園に勤め始めた時の研修三年目)

仕事をそつなくこなす。
不平不満を言わず、黙々と働く
どんな作業をしても、スピードが早く、狂はない正確さ

何をとってもこの人には敵わないなと思っていたからこそ、僕はことある作業で、タタン君を見本に農作業に勤しんでいたのである。

だからそんなタタン君が僕にとってのインドネシア研修生の3年生になった時の姿だと思っていたのである。

そんな勝手な理想像のせいであろうか、一年先輩のワント、同期のウサギとカメさんが、3年目を迎えたのに、えっ、なんでと思わせる事がばかりであったのだ。

不平不満ばかりを口にする。
園主の見てないところでは手を抜く。
想像もしない見当はずれの事をする。

これが国際交流でちょっとした付き合いであればいい奴等だなという事で終わるのだが(ほんとに気のいい奴等なので)、しかし、ほぼずっと一緒であるからこそ、その自分の理想像との違いから、ちょっとづつ、ちょっとづつ、不満が募っていったのである。

そこで僕自身のこの蓄積の不満を解消するために、いや行けば何か僕にとって気持ちの転換ができるきっかっけを得られるのではないかと、インドネシアに来たいうのも実は一つの目的でもあった。


話はバンドン駅に着いた所に戻る。
長い長い旅路を終えた僕らを待ち構えていたのは、彼らが母校、ダンジュサリン農林高校の一団と、あのタタンであった。

彼を見た瞬間に、言葉に表せない喜びが込み上げてきたのだ。
それも、上記に書いた事などなんかどうでもいいと。

ただタタンに合えた事が素直に嬉しくて。
タタンと再会
再開直後のタタンタタン君とバスの中で

さて、タタンの事である。
彼は、日本で果樹の販売について研究して帰国した。
将来的には、観光農園、果物狩りをして食べられる農園を作ると言って。

だが、それは色々な障害があり、実現は難しい事。
帰って植えた果物の苗はまだ大きくなってない事。

大学で仕事と勉強をして、週末は自分の畑の管理をしてる事。
タタンが言っていたのだが、日本での生活は大変だった、だからインドネシアに帰ったら遊ぶぞと。
しかし、今のほうがもっと忙しいと。

ちょっと疲れた顔で、そんな事を口にしたタタンであったが、その目には、自分の夢を叶えるための情熱が宿っているように僕には感じられた。

さて、久々のタタンと再開して、会話を楽しんでいると。
さっそく、タタンが質問をしてきた。あの女の子はダレ、と。

ちなみにお土産は何が欲しいと聞いたとき、かわいい女の子と言ってきたのはこやつだ。

昔話しになるが、タタンと過ごした日々で、忘れもしないエピソードがいくつがある。
その一つが毎週日曜日の午前の仕事が終わり、お昼を食べるために階段に上る時にタタンはいつも同じタイミングできいてくるのだ「どう?」

主語もなにもない唐突な質問であるが、彼は、当時うちで働いていたバイトの女の子に惹かれていた。
しかし、悲しい事かな、タタンはその子とは別の仕事であり関わる事がなく、毎回僕に聴いてくるのだ。
「どう?」

おっと、この下りを続けるとブログの趣旨から外れていくので、はしょるが
そんなこんなで、タタンのために仲良くなるきっかけを作ったりしたとか、注意したりとか、昔を思い出しつつ、タタンはやっぱりタタンだ、変わらないなと愛おしく思うのであった。

そして、そんなタタンのためにさりげなく座席が隣になるようにしてあげる僕も、2年という月日は立ったが二人の関係は変わらないなと思うのであった。ただ、僕はあのスーパー研修生であったタタンに会う事で何か見つかると思ってきたのに、それまでの期待に満ちた僕の思いを返せやという想いは胸の内に閉まっておこう(笑)


さて、話をまじめなほうに戻すが。僕はタタンの作った果物を是非とも食べたかった。
しかし、時期が良くなく彼の作った果物のほとんどが、実がなっていないか、時期ではなかったのだ。
でもやっぱり彼の作った果物がどうしても食べたかった。

彼が苦労して作っている果物、帰国後のために苦労して研究した果樹の販売方法。
一緒に福井の栗農家にインタビューに行ったり、二人で果樹についての卒業研究の発表の特訓をしたり。

そんな日々があるから、どうしても食べたかったのだ、タタンの作った果物を。
そんな意図を組んでくれてか、タタンは自分の作ったの果物を持ってきてくれたのだ。

ただそれはまだ小さく、まだ美味しくないと彼は言っていたが、果物を持ってきてくれたのだ。
確かに、というか正直言うとそんなに美味しくはなかったが、彼が作ったとうだけで、そしてそれを僕らのために持ってきてくれたという事だけで僕には美味しく感じられたのだ。

そんなほっこりエピソードもこの旅では沢山味わえたのである。
ただ、彼の一番作りたいのは果物の王様「ドリアン」である。
次はその木が多きくなった時に是非とも食べに行きたいのである。

タタンはバンドン駅から、バンドン空港まで、すべての日程をサポートしてくれたのだが、彼のサポートは完璧であった。
やはりここはスーパー研修生であると改めて思わされたのであり、彼との再会からインドネシア農村スタディーツアー2015は始まったのだった。





















長い長い移動の中で - 2015.02.07 Sat

実は、10年前にも僕はインドネシアに来ている。

アジア青年会議なるもので、アジア各国の若者との交流のために。

もちろん、この頃は農業を今のようにしている事やインドネシア研修生の子と一緒に働く事なんて想像もしてなかったので、インドネシアの農業はどんなものかとか、インドネシアの暮らしはどうなのという視点は全く持ち合わせいなかった。

ただ、ジャカルタの空港に着いた瞬間、思いだしたのだ。
ここ、来たことあるぞと体が。

そして、久々の海外という事で、忘れていた感情が沸々と甦ってきたのだ。
何が起こるかわからない、自分にとって想像のつかない出来事に遭遇する、あのワクワク感、

逆をいえば、日本にいるよりも危険が多いから恐れる気持ちもあるが、登山家が死と隣り合わせの冬山に上り、そのスリル感を凌駕する自然の絶景を見に行く事が病みつきになるように、異国の地に行くという事は、それだけ色々なものを自分に与えてくれるからその恐れをも越えて、堪らないのである。

そして、早速、僕らは死の恐怖を実感するのである。
ジャカルタの空港について乗り込んだタクシーでの話である。

最初のうちは、ジャカルタの街並みや車を見て、10年前に来た時よりは、発展してるんだなとか、ボリビアと比べていい車がいっぱい走っているなと感心して見ていたのだ。

しかし、渋滞を少し抜け始めた頃から、ドライバーの運転が変わった。
スピードが出てる。

ただそれだけなら何にも問題はないのだが、このドライバー、車の隙間を糸を縫うように走り始めたのだ。スピードを落とさずに、あげくに3車線である道路をここは4車線でしたってけと勘違いさせてしまうくらい、堂々と交通マナーを無視するのだ。

ちなみに、今まで色んな国に行ってその国の恐ろしい運転というものには出会ってきたつもりである。
すぐ隣が崖なのに、ここで追い越ししますかとうい場面や、運転手さん、そこで事故があって天に召された方の墓標が立っているのですが、そこで、そんな無謀な運転をするのですかなどなど。

だから、これぐらいの運転はまぁ許容範囲でしょうと、むしろハイきました外国と楽しんでいたが、車からピーピー音がなり始めた。

そう、スピード出しすぎですよという警報が
ちょうど僕は座っていたのが後部座席の真ん中で、丁度スピードメーターが見えてしまった。
「120キロ」

このスピードで無謀なカーチェイスみたいな事をする運転に久々に死の恐怖を体験するスタートダッシュをきったのだった。


さて、話を進めるが、23日に福井を午前四時に出て、恐怖のタクシー移動を経て、ジャカルタのホテルに着いたのが現地時間の19時頃であった。時差を考えると、移動に約17時間をかかっていることになる。

しかし、それだけ時間がかかっているのに、まだ研修生が僕らを待ち構えている、バンドンに付かないのだ。
また、バンドンから彼らの村までが3時間と考えると、物や人の移動が容易になったこの時代でもやはり、外国に行くというのは労力を使うものなのだろう。

でも、あと少しで会えると思うと、ワクワクは止まらない。
そんなテンションで次の日に乗り込んだのが、ジャカルタ-バンドン間を走る列車であった。

これが到着すれば彼らに合える、あったら何話そうかなとか、彼らのために用意した農園スタッフのメッセージビデオを見せたら、どんな反応をするかなと考えながらの電車での移動であった。

そんな中、気づけば昨日の移動の疲れから眠りこけていたのだが、用を足したくなってトイレに行き、さぁもう一眠りしようかなと思って扉に手をかけた瞬間、ピリリと少し寝ぼけた頭が覚めたのだ。

あれ、扉が開かないんですけど。

ちなみに、過去のトラウマから、狭くて暗い所に閉じ込められると、パニックになってしまう性分であり、暗くはなかったが、狭いトイレに閉じ込められたという事で取り乱したのである。

声は出していなかったが、ギャー、誰か~~と叫びたくなる心情で数分間暴れていた。
実はかつてフィリピンでもトイレに閉じ込められた事があった、その時はドアノブが壊れて。
ボリビアでもオフィスに閉じ込められた事もあった、扉の作りがしっかりしてなかったから。

そして、その時も暴れて、どうにもならない事を諦めた瞬間、脱出の糸口を見つけたのを思い出したのである。
だから取り合えずお、落ち、落ち着こう、もし扉が開かなくても、一緒にいるメンバーが誰か気づいて救出に来てくれると。
確かみんな起きてたはず(汗)

しかし、人間落ち着くと、冷静に物事が見れるようになるんですね。
なんだ、こんな簡単に出られるではないですかって。ここでその原因を書くとあまりにも恥ずかしいので、ここは相当苦労して脱出したいう事にしておいて、バンドンに到着したのである。

しかし、やっぱり外国では自分の想像していなかった事に出会う確率がかなり高い。
ただの移動なのに、既に肝を冷やす出来事に出会うのだから。

これだからこそ異国の地に行くのはやめられない。
さてさて、研修生との再会ではどんな思いを僕にさせてくれるのだろうか、そんな期待を胸に研修生の待ち構えるバンドン駅の出口に向かったのである。







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Author:ゴンベイ
ド~レ~ミ~ってちゃんと歌っているつもりなのに、人からは音外れてるよって言われるんだよね。トントントンってちゃんとリズムを刻んでるって思うだけど、人からは段々早くなっているよって言われるんだよね。でもメロディーもリズムも人それぞれ違うもんだと思うから、人と合わせて調和をとることが大切。そんな私のハーモニー、このブログで奏でていきたいと思う。

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